暮らしとわたしとあなたがアイドル

 髪はのびる、爪ものびる、定期は切れる、Suicaの残金が足りなくて改札から出られない。ICカードへのチャージをいくらぶんすればいいのかいつも迷う。「いずれ使う」にまわす余裕が、自分にどのくらいあるのかを考える。

 
 排水溝に髪の毛が詰まる。台所にあるスポンジにまだ泡が残っている。洗濯機をすすぎ1回モードにしてまわす、ハンガーの数が足らないから買いに行かなくてはならない。昨日の朝だしわすれたゴミを、今度何曜日に出せばいいのか考える。
 
 生活・生活・暮らし。やりたいことの前には必ずやらなければならないことが立ちはだかっている。そしてわたしたちは(ともだちじゃない)他の人がやらなければならないからやったことなんか知らない。知っているのは、好きな色、誕生日、血液型、あと使っている携帯の機種とか、よく使っているかばんとか。君の住んでいる街の燃えないゴミの日を教えてよ、知らなくても全然いいけど。
 
 アイドルとともだちになれない。アイドルのことを知らない。べつに、アイドルとはステージに上がって歌って踊ってキラキラしている人のことだけじゃない。たとえば朝いつもの電車で隣に座るあの子とか、もぐりこんだ知らない授業で1回だけ見かけたことのあるあの子とか。もちろん、ステージの上にいてもいい。テレビでだけしか見れないようなトップアイドルでもいい、昨日行ったコンサートでステージの端でだけど目を離せないほどに輝いていたあの子でもいい。ただ、わたしたちは知らない。知らないことが、あの子をアイドルにする。わたしと、あの子を隔てているのは、わたしが、あの子を知らないこと。関係性に比して過剰な思い入れこそが、わたしの持つ執着が、あの子をアイドルにする。
 
 電車に乗ってやってきたコンサート会場に、でもいい。歩いてやってきた駅に、でも、わたしが来るのだから、あの子もまた「来て」いるのだ。暮らしのなかからいまここに、「来て」いる。
 
 その前に、彼女が定期券を更新するためにいつもよりすこし早く家を出たとか、寝坊しそうになってあわててスヌーズを止めたとか、5分遅れたのは乗換駅で人身事故があったからだとか、そんなことを、わたしたちはつゆほども知らない。知らない誰かのありふれた日常と、地続きにあるはずの今を、わたしたちは非日常としてとらえる。いま目の前にいるあの子と、わたしの頭の中で生きているあの子は、厳密に言うとすこし違うのだろう。あの子は今朝恋人のいるベッドからぬけだしていまここにいるのかもしれないけれど、わたしの頭の中で生きている彼女はそんなこと絶対にしないのだから。
 
 実在と非実在の境目は、こうしてみると非常にあいまいだ。いつもの駅のいつもの位置に立っていることも、あるいはテレビの中で笑顔をふりまいていることも、当人からすればそれは生活・暮らしと地続きになった瞬間だ。けれど、切り取られたある時間しか見ていないわたしたちは、そこからすぐ先に日常があることをいつも忘れてしまう。彼女たちは当たり前に人間で、そしてわたしのなかでは人間ではないのだ。ただ、フィギュアでもなければ絵の中の人物でもない、実在の人物として非実在なのだ。
 
 しばしばアイドルファンはスキャンダル記事を見てがっかりしたり、失望したりする。それはつまり、知らなければなかったのとほとんどまったく一緒だったできごとが、知ったことによって事実としてそこにたちのぼってしまうのが悲しいのだ。本当の彼女が浴槽の水あかをこすっている時間にも、わたしたちは彼女がカフェでパフェでもつついているような時間を想像している。想像することさえ許されていればいいのだ、想像の余地があれば、実際になにをしていたかなど、実のところもはやどうでもいいのだ。ただ、わたしのなかに彼女が生きていさえすれば。
 
 知らない・知らない・知らないわたしたちは想像をふくらませる。ただ、その余地だけが奪われないように、いまも必死に想像している。