日記

  • なんか講談社のマガポケってアプリでファブルが全話無料だから読み始めてそしたらいろんな漫画もそこそこなレベルで無料なので今朝起きたら5〜10作?くらい読むのがルーティン化してる。島耕作も読んでる。今会長編まできて、同じアプリを使ってる人ならわかると思いますが大体1作1日に3話ぐらいずつ読み進められるのでそうやって読んでる。なんか自分で買って集めて…とかまではしないけどあったら読むくらいのものがそこそこ揃ってるのでチマチマ読むのに向いてる。でそこでのだめカンタービレもほぼ全話無料で読めてこの前全話読み終わったんだけどなんか話の転換点とか展開自体の切り替わる部分がすごい曖昧に受け取れてこれはどう読めば…という気持ちにならないこともなかった。というかなんかしっかり読んでもどっちとも受け取れたり、ある人物以外の感情や、感情ならまだしも行動の描かれ方が不十分に感じて、もちろん読んでて名作だと思ったし面白いしカタルシスを感じる場面もあるんだけどかなり気をつけてついていこうとしないと何もかも読み取れないままふわっと展開が終わる場面があって、そこにかなり現在の漫画とのギャップを感じたかも。今現在連載中の漫画も同じアプリの中で複数読めるんだけど、試し読み無料!とかで手をつけてもなんか「描かれすぎてる」ことが不満で続きを読もうという気にならないことが多い。もちろん20年経っても残るような名作といつ終わるかわからない直近の作品を比較すること自体が難しいんだけど…そして二ノ宮知子が間違いなく天才なのだけど。なんかこれが描かれた当時というのは「描きすぎない」ことが美徳とされすぎてたのかな?とか少し思った。もちろんある程度リアルタイムに生きてきて同時代の作品をいくつも読んだ感想として…。
  • 描かないことで想像力で補うことを読者に求めるのは単にもっと漫画自体がメジャーではないカルチャーだった時代の名残であり、読者にはリテラシーがあるものという前提からかもしれないけど、どちらかというと自分は「人間」自体がいくつものステレオタイプに分けやすい時代の作品だからこそ描かなくても共通認識として読み取れることを読者が期待されてるのかなーと思う。しかし1億総個性、みたいな謎の時代である現代、そして自分自身が生活者としてマジでよくわからない人間の思考に触れるタイミングがあると、一作品の読み方を「たぶんこうだろう」だけで読み取るのは難しく感じる。特に最近は人のよくわからない思考や行動に振り回されることが多い。自分自身がかなり何かの枠組みに当てはめることが難しい人間であることは昔から自覚があるけど、人の多面的な部分を目の当たりにすることが日常にあまりに多く、そして人は変わるということを身をもって体験している最中…「のだめカンタービレ」の作中人物の行動を想像だけで補って自分の中で物語として完結させるのはいささか難しかった。というか今もできていない。人には人の乳酸菌、思考や行動があるけれど、たんに一つの行動から読み取れる思考がもはや画一的に捉えられるものではないことが明らかになった社会で表現というのはどんどん難しくなるなあと鑑賞者の立場で開き直りながら思った。
  • 自分はもう人の行動や言動から何かを推察するというのを意図的にやめている。行動や言動はあくまで行動や言動としてそれだけの意味を持つし、言った以上ややった以上のことに不必要な意味づけをしても、実態との乖離が甚だしくなるだけだなーと思うようになった。きっかけが特にあるわけではなく、ここ数年生きてきて感じたことの中から思考を意識的に変えている。
  • そういう風になった自分が鑑賞者として触れるには演劇的な要素が多少なり、ある、演出が支配するエンターテイメントが適している気がして、それが自分が今アイドル産業にハマっていることの一個の答えなのかなとも思う
  • しかしアイドルには実体があるのでした