美しさはどこからくる?ーーLeeKit「僕らはもっと繊細だった」

芸術がなにかわからない。芸術を見て美しいと思うとき、自分の心がなにをもって美しさを感知しているのかわからない。

壊滅的とされているこの国の美術教育を受けて、私はとても有名な美術作家のいくつかの作品が高く評価されていることを知っている。それらを見て、いいと思ったりよさがわからないと思ったりする。でもその気持ちや、審美する感覚を、自分がどこで培ってきたのかわからない。生まれてきたときから美しいもののことを知っていて、かつて知った美しさに現在の私が呼応しているだけなのだろうか? だとするのならば、一度見たはずの映画の違う部分に感動するのはどうしてだろう? そんなことを考えながら12月24日、16時ごろにJR品川駅に降りた。17時に終わってしまう展示を見るために、歩いて15分の美術館にタクシーで向かおうとしたら、あまりにも乗り場が混んでいるから早足で歩いた。

原美術館には何度か行ったことがある。以前に見た展示はどれもよかった。でも今回の展示を焦って見て、いいと思えなかったらどうしよう? 第一京浜都道317号線が描くカーブの道、銀杏の葉が落ちていて真っ黄色で綺麗だった。この歩道が黄色いことよりも、展示が美しくなかったらどうしよう? そう思いながら歩いた。

日が落ちかけて薄く陰る原美術館の展示室には、しっかりした明かりが灯っていなかった。すべての作品にはタイトルがつけられておらず、展示室によってはある窓からの採光以外には、プロジェクターで投影される映像によって光が灯されているだけだった。

リー・キットの作品には鮮やかな色彩があまり登場しない。薄暗くて、さほど広くない部屋の中にはぽつんと作品がある。部屋が空間であることを意識する。綿密に書き込まれたわけではないラフスケッチのような絵や、投影される映像に接して見ようとすると、床に置かれたプロジェクターの前を歩かざるをえず、自分の姿が作品に干渉してしまう。

それでも近寄ってしっかりと見ようとしても、部屋によっては空間が暗すぎて視力がよくない私には細部が見えづらい。さらに最終日にはとにかく人がたくさんいて、自分が見えやすい場所を選ぶことも難しかった。

完璧な鑑賞はできない。少なくとも最終日のその空間においては。そして一度見た「正しく」「美しい」光景は再現されない。窓からは外景と光が差し込み、光によって空間は変化する。また鑑賞者の影が介入してくることもあるだろう。長期にわたっての展示ではあるが、毎回ある意味では違う景色を見ざるを得ず、非常に一回性が高い。

作品の中にはいくつもかの言葉が含まれる。その言葉たちにはいくらか詩的な表現もあるものの、おおよそはあまりに実際的で意味のありすぎるものだ。

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生活に直接関与するような意味のある言葉、ラフスケッチのような線だけで構成されるカンバス、光に鑑賞者が写り込んでくる映像、名前が付けられていないそれらを何分かずつ立ち止まって眺めた。そしてわかったのは完璧なものなどどこにもないということだった。作品たちはわざとらしく完全さを除外されて作られているけれど、私たちの人生においてもそれは同じで、生きている中での完全さはいつでも突如として介入者によって奪われていく。それは実際に人間として形をもった他者であることもあれば、蚊に刺された傷が皮膚の完全さを奪うことや、日常の楽しさを風邪が全部失わせてしまうことでもある。些細だけどそれは人生の全てだ。

そんな人生を確かに、私は「編集」している。視野を狭めることで見たいものしか見ずに、生きていくことができる。そして「編集」しているという事実をしばしば忘れられる。というよりもむしろ、それは私にとって不都合な事実なのだ。だって道に落ちた葉をただ綺麗だと思うことに終始すれば、まっすぐに歩くことはとても難しいのだから。歩道を見ないことを選び、そして私は目的地にたどり着く。美しいものは生活から除外される。

最後の展示室で壁に投影されるのは挨拶程度の言葉と、実際はない窓に木の影が揺れる映像だ。ほんの数十秒の映像が何度もループし、目の前の景色はあまり変化しない。それでも目に焼き付けて、私は一歩外へと踏み出す。

すると、外にあるのは先ほどまで館内で高い集中力をともなって見た景色と大差ないただの日常だった。日常には他者の足音が響き、窓に切り取られない路上に美しい葉の影が投影される。12月の路上に吹きすさぶ風は冷たく、強風によって目からは勝手に涙が出てくる。頰を伝う涙を私は冷たいと思ってただ流したままでいる。

リーキットが喚起する繊細さとは何か? それは私たちが日常にある美しさを確実に素通りして生きてきているという単なる事実である。美しさにまつわる教育を受ける以前に、私は確かに美しさを感知していた。単に目の前にある事象を、単に事実として美しいと受け止めていた。落ち葉の色が目に鮮やかで、咲く花のひとつひとつが柔らかに光り、音はどれも耳に新鮮に響いた。それは美術展の作品に他者が介入するように、生活に静かに介入してくる単なる美だった。

先ほどまで来た道と反対の大崎駅までを歩く。17時を目前に空は翳っている。坂道のカーブは地形に沿ってなだらかに流れ、風の流した涙がそのまま続いて溢れ、世界が美しさに満ちていることにその時やっと気づいた。